満腹日和

第44回

 「伊能忠敬」という人物は、受験生なら必ず暗記する名前です。編集担当が社会科の先生になりたての頃、色々な学校の入試問題に何度もこの名前が出てくることに気づき、そんなに頻出なんだと印象に残ったことを覚えています。
 もちろん名前は知っていたけれど、江戸時代に正確な日本地図を作った、ということ以外は浅学にして知りませんでした。ならば勉強してみようと思ったものの、硬質な歴史書や学術書はちょっと重かったので、書店でこれならまだ読みやすかろうと、井上ひさし先生の「四千万歩の男」を手に取ってみました(ただこれも大作なのでとても長いお話なのですが)。
 現在の千葉県に生まれた彼はのちに酒造家伊能家に養子に出されます。傾きかけていた伊能家の経営を完全に立ち直らせた彼は、次々と事業を拡大し、莫大な資産を築きます。これだけでも立志伝中の人物と言えそうなのですが、彼が本当の人生を「歩み始める」のはここからなのです。
 独学で暦学を学んだ彼は、49歳のときに稼業を全て息子に譲り、翌年本格的に天文学を学ぶために江戸に出ます。そこで幕府の天文方、高橋至時に弟子入りするのですが、大作「四千万歩の男」はここで最も盛り上がる場面を迎えます。
 至時は当時31歳。忠敬とは19歳も年齢が離れています。封建的な価値観で成り立っていた江戸期にあって、この弟子入りは常軌を逸したものでした。至時も当初は「年寄りの道楽」と思い、億劫に感じていましたが、忠敬と対面し、話を聞くと、それまでに学んだ算法の素養が意外にもかなりしっかりしたものである事に驚き、また、何より学問に向かう情熱に感化されました。
 2人は年齢差をこえた強い師弟関係で結ばれ、忠敬は至時を生涯敬い、また至時も忠敬を「推歩先生(星の動きを測ること)」と呼んでその情熱を讃えました。
 そして忠敬は56歳から72歳で亡くなるまで、実に17年をかけて日本全国を測量し続けました。その距離は何と4万キロメートル。地球一周分に相当します。愚直に、地道に継続した測量の結果、 枚を超える地図を弟子たちが繋ぎ合わせ、「大日本沿海輿地全図」が完成しました。
 人間は夢を持ち前へ歩き続ける限り、余生はいらない―そう語っ伊能忠敬が情熱をかけて作り続けたその地図は、明治時代まで使われ続けたそうです。
 学びと年齢は関係ない。必要なのは情熱と意志である。編集担当も今年、恐れず挑戦し続ける一年にしたいと思っています。
 

第43回

闇を切り裂く朝日が昇る時、夜明けの到来を告げる一番鳥の声とともに新しい年が幕を開けました。「酉」は本来酒を満たす壺を意味する象形文字で、その「酒」もこの字がもとになって作られています。新たな年が期待と希望に満ちたものになってほしいと、心から祈ります。
 ただ、世間の正月気分をよそに、受験生は残された僅かな時間を惜しむかのように、今日も机に向かっています。彼らにとっては今が夜明け前。最も闇が深い時期を過ごしていることでしょう。毎年この時期は、そんな彼らの姿を思い浮かべながら編集作業にあたります。
 さて、今年最初の表紙はどうしよう-そう考え始めたのが出雲大社から帰って数日後。とらえどころのない浮雲のようなアイデアは、つかもうとする側から失われていきます。思いあぐねて自宅の白い天井を見上げた時、その隙間を縫うように傍らのテレビから聞こえてきたのは映画「君の名は。」の挿入歌でした。-君の名は、受験生-よし、それでいこう。
 ところが各方面で大絶賛され、興行的にも記録的成功を収めたこの映画、実はその時点ではまだ見ておりませんでした。できるだけ対象に誠実でなくてはならない、ならばと思い立ち、すぐに映画館へと駆け込みました。ただしおじさん一人で見るには少し勇気が必要だったので、なるべく人の少なそうな場所と日時を選択せざるを得ませんでしたが、これも仕事だと自分に言い聞かせることにしました。
 107分の上映時間中、美しいと評判の風景美、特に自然光のライティングにまず感心。次いで音楽と映像のシンクロナイズに気をとられつつ、ああこれは確かに引き込まれるなあと納得しました。後日、この作品は平安王朝期の「とりかえばや物語」や、世界三大美女で有名な小野小町の「夢と知りせば覚めざらましを」の和歌がストーリーの根幹部分の着想になっていることを知りました。時代を超えて受け継がれてきた伝統文化へのリスペクトが、この映画が多くの支持を得た理由のひとつなのかもしれません。
 さて、今回の表紙は作中の「かたわれ時」をイメージしました。まだ「受験生」でしかない一人ひとりが、来る春にはなりたい自分になるために、入試というハードルを高く跳び越えてほしいと心から願います。
 SG JOURNAL Theoriaも今年5年目を迎えます。「酉」という字には収穫した作物から酒を抽出する、果実が成熟した状態であるという意味もあります。より成熟した紙面をお届けできるよう、努力して参りますので、引き続きご愛読いただきますよう、どうぞよろしくお願いいたします。

第42回

 「今年を振り返る」といった類のニュースがメディアに流され始めています。おいおいまだ早いだろ…と思っていたら、いつの間にか12月がやってきます。
 「神ってる」を初めて聞いた時にああ、これは流行語大賞の候補になるんだろうなと思ったものですが、毎年「それは思いつかなかった」と感じるのが「今年の漢字」。年の瀬に高名なお坊さんがお寺の前で豪快に筆を走らせているのはおなじみの光景です。
 少し調べてみると、このイベントの主催は「漢検」でよく知られている日本漢字能力検定協会。しかもどの漢字にするかは公募で決まるとのこと。ただし昨年の漢字は「安」だったのですが、この漢字への投票数は5632票。総投票数が129647票ですから、得票率はわずか4.3%にすぎません。最も得票が多かった漢字でこの結果ですから、相当に票が割れているということです。ちなみに2位以降は「爆」「戦」「結」と続きます。
 さらに振り返って過去の結果を見てみると、2014年は消費税引き上げがあったので「税」、2013年は東京五輪決定の「輪」、ロンドン五輪や金環日食のあった2012年は「金」、東日本大震災から復興を目指した2011年は「絆」となっています。大きな自然災害や暗いニューニュースが目立った年は必ずマイナスのイメージの漢字が選ばれているというわけでもなく、世相からいかに共通点を探し出すかが予想のポイントのようです。
 オリンピックイヤーでもあり、政治家の「金」にまつわる汚職事件は後を絶たず、米大リーグではイチローが日米通算安打3000本という「金」字塔を打ち立てたことを思えば再度この字かとも思いますが、実はこの漢字は過去2回も選ばれているので、さすがに3度目はないかと。
 いくつか候補を考えたのですが、どれも決め手に欠ける印象は否めません。ならば最後はやはり自分の思い入れで予想します。今年の大河ドラマは真田丸。真田と言えば「赤」備え。そしてもちろん 年振りの歓喜に「赤」く染まった広島の街。さらに入試を目前にした受験生の答案が「赤」丸で埋め尽くされることを願って、編集担当の今年の漢字は「赤」とさせていただきます。
 「変革の年」といわれる申年ももうすぐ終わり。来たる2017年はどんな時も一番に鳴く酉年です。変革の後に訪れる新たな夜明けを信じつつ、今年一年のご愛読とご愛顧に心より感謝申し上げます。どうぞよい新年をお迎えになることを心よりお祈りいたします。
 

第41回

深まる秋、とは言うものの、夏を思わせるような蒸し暑い日があったかと思う一方、朝晩の澄んだ風は確実に季節のうつろいを告げています。やはり秋は「目にはさやかに見えねども」なのかもしれません。
 この稿を書いている現在、我らが広島東洋カープが日本一へまっしぐらに突き進んでいます。選手たちの躍動もさることながら、何より驚かされるのは、テレビの画面を通じて聞こえてくる地鳴りのような歓声。球場を真っ赤に染めて、チームを後押しするその声援には圧倒されます。空席ばかりが目立つ旧広島市民球場時代を知るおじさんとしては、少々信じがたい光景でした。この号が発行される頃には結果も出ているはずですが、最高のフィナーレへ、今はただ祈るのみ。この季節までカープを応援できる幸せを噛みしめながら、どんな脚本家も書けないようなこの1年間の奇跡、その集大成をじっくり見届けることにいたしましょう。
 「今年は広島の年」―相手チームの監督がそう言っただけでなく、様々な場面でそんな言葉をよく聞きます。言われてみれば確かにオバマ米大統領の広島訪問に始まり、リオデジャネイロオリンピック・パラリンピックでの郷土勢の活躍など、話題には事欠かない一年でした。そこに旧態依然とした中央集権的な枠組みへのアンチテーゼを感じつつ、それに対して胸のどこかで誇らしさも感じている自分は、ああやっぱり田舎者なのだなと痛感します。
 温暖な気候と豊かな自然に恵まれた土地に住む広島県人は、楽天的で陽気な「ラテン系」気質を持つと言われます。古くから中四国地方の中核を担ってきたという郷土愛が強く、熱血漢で行動力があり、進取の気風に富んでいることは県の産業を見ても明らかです。広島県の各地域はで独自の産業構造を築いています。これらの地域では「筆」「針」「家具」など、現在でもトップシェアを誇る伝統的産業と、新しい発想による技術改良や新産業などが融合して、多様な工業が発展してきました。これらの発展を支えてきたもの―それは、「部品調達」から「異業種での共同技術開発」までを可能にする、企業や研究機関のネットワークであり,高度な技術が蓄積された重層な産業構造だと言えるからです。
 ただし広島県人は「熱しやすく冷めやすい」とも言われます。「広島の年」はこの年限り、と言われないように、カープの黄金時代到来を願わずにはいられません。 

by テオリア編集長Y.O